
箱根峠の旧街道沿いに佇む一軒の杉皮葺きの建物。江戸時代初期にはじまり、現在12代目を数える老舗の甘酒茶屋です。この茶屋に、米麹の甘さを生かした『本来の甘酒』を作り続け、江戸時代と変わらぬもてなしで旅人を迎える夢我人がいます。
今が2008年でしょ?400年後っていったら西暦2400年ですか。ちょっと私には想像できませんけどね、私や先祖が守ってきた伝統って正にその時間のことなのかなと思うんですよ。江戸の初期なんて大昔から、ずっと店を守ってきたという事はそれだけで大変な重みがある。それらを省みれば、いくら経営が厳しかろうが甘酒茶屋を残してきたことは、私にとっては当然のことなんだよ。

文久2年(1862)孝明天皇の妹である和宮親王が、時の将軍・徳川家茂の元へ嫁ぐ際に改修されたとして有名な箱根旧街道の石畳。国指定の史跡にもなっているこの石畳の細道を箱根湯本方面から峠に向かって上っていく途中に、一軒の杉皮葺きの茶屋があります。
まるで江戸時代に遡ったような感覚に陥るその茶屋こそ『箱根甘酒茶屋』。江戸時代の初期より代々受継がれた味を現在に伝える、箱根峠に唯一残った老舗の甘酒茶屋です。この甘酒茶屋の現当主であり第12代目の山本達雄さん。絶品の呼び声が高い『本来の甘酒』の作り手であり、強いこだわりと情熱をもつ夢我人です。
甘酒茶屋は毎朝7時に開店します。都会であれば当然の時間かも知れませんが、甘酒茶屋は山深い箱根の旧街道にあるのです。
バスをはじめ一般車両は主に新道を走りますし、旧街道沿いのバイパスを走るバスは9時を過ぎてようやく走りはじめます。そのため、その時間にお店を開いても、甘酒茶屋を訪れるお客さんはほとんどいません。早朝ウォーキングを楽しむ登山者が稀にやってくる程度です。
それにもかかわらず山本さんが毎日その時間からお店を開けているのは、『たとえ一人でも、そしてそれが数日に一度であっても、街道を歩くお客さんがいるのであれば、いつでも温かい甘酒でもてなしてあげたい』という願いを持っているからです。
そしてそれは『茶屋が開いているからお客さんがやってくる』のではなく、『お客さんに寄ってもらうためにお店を開けておく』という甘酒茶屋代々の当主が持ち続けてきた信念によるものです。そんな山本さんが作る甘酒は大変な人気を博しており、街道ウォーキングをする人々で賑わう祝日には、お店に入りきらないほどたくさんのお客さんがやってきます。

「こんな甘酒は今まで飲んだことがない…」「今まで甘酒はキライで飲まなかったが、ここの甘酒を飲んだらこれまでの概念が吹き飛んだ」そういった声が多く上がる山本さんの甘酒には、江戸時代から伝わる秘伝が生かされています。
箱根甘酒茶屋の甘酒は『伝統的な甘酒』。現在は酒粕に砂糖を加えて水でのばす甘酒が一般的ですが、山本さんは砂糖などの添加物は一切加えません。麹の発酵によって生じる自然の甘みだけで甘酒を作り上げるのです。
江戸時代において砂糖はとても貴重な品であり、かつてはそうやって甘味を作っていました。そして米麹から作る山本さんの甘酒こそ、江戸を生きた人々が飲んでいた甘酒の味なのです。そんな甘酒は、毎朝その日の気候を考慮して仕込まれており、それぞれの加減は代々の当主にのみ伝えられています。

また、焼餅に香りの良い青大豆粉をまぶした「きな粉」と、海苔を巻いたしょうゆ味の「いそべ」の2種類がある「力餅」も山本さんの自慢の一品。この力餅のために山本さんは毎朝3時半から仕込みを開始します。
出来合いの市販の餅を使ったりすることなく、一切の手抜きをせず昔ながらの臼ときねを用いて、丁寧に心を込めて餅をつきあげています。さらに餅を焼く際は、備長炭だけを使用するなど、甘酒茶屋の至る所に山本さんはこだわりを持っているのです。
その様な数多くの秘伝とこだわり、そして工夫を駆使しながらも、山本さんは決して難しいことをしているとは考えていません。それは、先代である父親や先々代である祖父という自分の知る先達が、幼い自分の目の前で実際に取り組んでいたことであり、山本さんはその背中を見ながら育ったからです。
山本さんは昭和10年、甘酒茶屋を営むご両親のもとに生まれました。当時は山本さんの父が第11代当主として茶屋を運営していましたが、その頃にはすでに幹線道路が整備されはじめており、人々の足は段々と街道から遠のいていました。
茶屋だけでは一家が食べていくこともままならず、ほとんど客の来ない茶屋は母が一人で営み、当主であるはずの父は小田原の町へ働きに出ていたほどでした。そのため高校を卒業した山本さんは、すぐに甘酒茶屋を継ぐことはできず、富士フィルム(株)へ就職します。山本さんの心の中から甘酒茶屋のことが消え失せることはありませんでしたが、日々の仕事に没頭する中で、茶屋の存在は少しずつ小さくなっていきました。
やがて会社でも重要なポストに就くようになり、企業人として充実しはじめた頃。父が癌に蝕まれていたことが分かり、余命半年という辛い宣告をされました。山本さんが富士フィルムに就職して18年が過ぎた昭和46年のことです。その時には社内でもかなり重要なポストに就いており、大きな仕事を任されてもいましたが、山本さんは迷うことなく会社を辞し、峠の茶屋へ戻ることを決意します。
もともと山本さんの先祖は小田原に居を構えていたと伝えられています。その所以は明らかではありませんが、先祖が箱根峠で甘酒茶屋を始めたのは今から400年ほど前の江戸時代初期のこと。
関所の付近にある茶屋は、これから関所を通ろうとする旅人にとっては無事に関所を越えるべく身支度を整える場所であり、関所を通過することができた旅人にとっては、安堵のため息とともに小休止をとる場所でした。そういった東海道を行き交う多くの人々で賑わっていた峠の界隈の様子は、今でも文献や史料などで垣間見ることができるほどです。
江戸時代から400年。先祖が守り伝えてきたということの重みは、幼い頃から自然と意識するようになっていました。また、かつては周囲に4、5件あった同業の茶屋も、ひとつまたひとつと暖簾を下ろし、峠を去っていました。その時すでに山本さんの甘酒茶屋は唯一残った茶屋だったのです。
しかしながら、その当時も過去に比べて少なくなったものの、まだ峠を歩く人々はいました。彼らのことを考えると、「箱根を歩く人々の拠り所でありたい」「彼らの助けになりたい」という思いは強くなるばかり。まだ一縷の光明すらも見出すことができずにいましたが、数少ないお客さんを大切にしながら、山本さんは黙々と伝統を守り続けました。
12代目を継いでからも、やはり店をたたもうか…と何度も家族会議を開いたほど茶屋の運営は難航していました。それでも、少しだけでも長く峠の茶屋を残したい。一日でも長く先祖の伝統を残したい。その願いを込めて山本さんは甘酒を造り続けました。そして…。

時代の中に取り残された旧街道の小さな茶屋は、やがてかつての懐かしさと温かさを求める時代に生き残ることに成功しました。
高度経済成長に伴い旅行ブームが生じてからは、街道を目的にするのではなく、温泉を目的に箱根を訪れる人が急増しました。また、街道ウォーキングが流行してからは、あえて便利な新道ではなく、石畳の残る旧道を歩く人々が増加しました。
どんなに苦しいときでも、自分の信念を捨てることなく、諦めることなく、仕事に取り組み続けた結果が報われたのです。
かつては箱根の関所を越えるための旅人を出迎え、現在は街道ウォーキングをする人々を潤す甘酒茶屋。時代は変わっても訪れる人をもてなす姿勢は変わることがありません。
12代目で過去最大の危機を乗り越えた『箱根甘酒茶屋』。 13代目、さらに14代目へと伝統は受継がれ、次の400年間も変わらぬもてなしを続けてくれることでしょう。
【山本達雄さん(左)と跡継ぎの息子さん(右)】
京都にある名門の懐石料亭『辻留』で修行を積み、父を支える13人目の職人として甘酒づくりに励んでいます。