
箱根峠の旧街道沿いに佇む一軒の杉皮葺きの建物。江戸時代初期にはじまり、現在12代目を数える老舗の甘酒茶屋です。この茶屋の次代を担う13人目の甘酒職人となるべく、穏やかながら強い意志を持ち現当主の父親を支える夢我人を紹介します。
確かにぼくは『辻留』という高級料亭で修行し、技術を身につけました。この店で辻留の味を再現することもできると思います。そうすればその料理目当てのお客さんが増えるかも知れません。しかし、ここは『甘酒茶屋』であり、箱根の峠茶屋なんです。美味い甘酒を飲んで。力餅を食う。それだけでいいんです。だってお客さんが望んでるのは正にそれなんですから。

文久2年(1862)孝明天皇の妹である和宮親王が、時の将軍・徳川家茂の元へ嫁ぐ際に改修されたとして有名な箱根旧街道の石畳。国指定の史跡にもなっているこの石畳の細道を箱根湯本方面から峠に向かって上っていく途中に、一軒の杉皮葺きの茶屋があります。
まるで江戸時代に遡ったような感覚に陥るその茶屋こそ『箱根甘酒茶屋』。江戸時代の初期より代々受継がれた味を現在に伝える、箱根峠に唯一残った老舗の甘酒茶屋です。この甘酒茶屋の現当主であり第12代目の山本達雄さんの息子、聡さん。13代目の当主となるべく、父と共に甘酒作りに取り組むその胸中にはとても熱い思いが秘められていました。
聡さんが小学生の頃に書いた作文。その中には『将来の夢は甘酒茶屋を継ぐこと』と書かれていました。
一日も休むことなく、お客さんに甘酒を提供し続けてきた父。幼い頃からその背中を見て育った聡さんは、その職人としての一途な姿勢に憧れ、いつの日か父に追いつきたいと無意識に考えるようになりました。
毎朝3時から仕込みをはじめる父とは、朝ごはんを一緒に食べた記憶がありません。どんな日も店を閉めようとしない父とは、キャッチボールをしたことがありません。学校行事に来てくれたことも一度もなければ、その口から「お前に甘酒茶屋を継いで欲しい」という言葉を聴くこともありません。それでも、職人としての信念を貫かんとして日々の仕事に没頭する父の姿は、厳しくも雄大な存在として幼い聡さんの脳裏に焼き付いていたのです。
しかし時の流れと共に少年は成長し、そういった父親への憧憬は少しずつ胸の奥にしまい込み、自分自身の道を模索するようになりました。聡さんも多くの若者と同じく、敷かれているレールを歩むことへの焦燥感と未知の世界への情熱が次第に膨れていったのです。
少しでも早く父を手伝いたいという気持ちと、自分の胸中で育つ自立心との葛藤は、聡さんを長い間悩ませました。そんな中で最終的に聡さんが選んだのは、甘酒茶屋の継承ではなく料理の道に入ることでした。
学校を卒業すると、聡さんは甘酒茶屋を継ぐことをせずに、懐石料理で高名な料亭『辻留』の門を叩きました。辻留は明治時代からつづく老舗で、茶道裏千家より出入を許される名門です。
京都・三条大橋のお店で働き始めてからは休みもほとんどなく、文字通り早朝から深夜まで仕事をする毎日が始まりました。辻留におけるその深い味わいを引き出す術は、明治時代から三代に渡り現在まで引き継がれています。代々受け継がれる技術と知識。そしてお客様へのもてなしの心。その伝統を重んじる姿勢は、場所や料理の違いこそあれ甘酒茶屋と全く同じでした。そして聡さんは辻留を通して実家の甘酒茶屋を見るようになり、その伝統の重みを実感として握り締めるようになります。
奇しくも聡さんが働くお店がある三条大橋は、東海道の京都側の始点となる場所です。
ふとした折に、聡さんは目の前の東海道に立ち、そのまま東方へと目をやりました。この道を真っ直ぐに歩けば、いつか同じ東海道に面する甘酒茶屋に到着します。
一本の道。甘酒茶屋と京都にいる自分を確かにつなぐ道。甘酒茶屋を継がずに辻留にやってきた自分の選択は間違いではないはず。そう自分に言い聞かせながら、聡さんは料理人としての道をゆっくりと歩き続けました。
13年という長い時間を辻留の料理人として費やした聡さんは、結婚と妻の出産を機会に箱根へ帰ることを決めました。高級料亭で培った料理の腕前は間違いなく一流です。しかし聡さんは甘酒茶屋で自分の料理を出そうとはしません。そこには聡さんの甘酒茶屋の伝統に対する思いがあるのです。
『峠の茶屋』に懐石料理なんていりませんよ。確かに辻留で学ばせてもらった味を発揮しないのは、一種の損失かも知れません。しかしぼくが辻留で身に付けたのは料理の技だけじゃありません。お客さまをもてなす心。それが一番大事。
そしてお客さまをもてなすのに、ぼくの料理はここで使うべきじゃない。自分の技を誇示しない。それにより甘酒茶屋の屋号を壊してしまう。それじゃダメなんです。それは間違いなんです。峠の茶屋ってのは、美味い甘酒を飲んで、餅を食べる。それでいいじゃないですか。だからメニューは増やしません。万が一リクエストがあればね、そりゃ作りますけどね(笑)。それに、『コーヒーはないの?』とか『ご飯や蕎麦はないの?』とか聞かれることはありますよ。それはしょっちゅうです。
だけど、うちは甘酒屋であって、親父や祖父が売り上げの厳しい時代を乗り越えて、思いを込めて続けてきた伝統のある店なんです。時代の波に媚を売って、一時の売上げに喜ぶようなことはしたくない。屏風を広げすぎると店は倒れるでしょ。味を変えることなく、美味しい甘酒を造り続ける。それは毎日変わらない目立たない作業かも知れませんが、ぼくにとっての『自己主張しないという主張』なんです。
大変厳しい修行の道ながらも、13年という長い期間を辻留で働き続け、信頼を得た聡さん。退職した今でもなお、新年のお茶事である初釜など重要な催事においては声を掛けられることもあるほど。その一流の腕前をひけらかさないのは自信と確信があるから。
甘酒茶屋を継がずに自分の道として歩んだ料理の道。そこでの経験はとても大きく得がたいものでしたが、それは伝統の茶屋を大きく発展させる力ではありませんでした。
その力は『今在るものを維持する力』。それは単に店を大きくするよりも困難で複雑な力。
箱根と京都は地図上では遠く離れていますが、甘酒茶屋と辻留は東海道というひとつの道で繋がっています。そしてそれと同じく、聡さんの道も遠く隔たれたもののようで、実はひとつの同じ道でした。今では聡さんは自分の選択が誤りでなかったと確信し、かつては遠くから眺めるだけだった父の背中を支え、その横に並び、13人目の職人として直向に甘酒作りに励んでいます。
【山本達雄さん(左)と女将さん(右)と聡さん(右上)】
14代目となるであろう息子さんに対して、聡さんは決して後継を強制しないと言います。そのことについて、少し口許を緩ませながら将来の希望についてこう話してくれました。
息子はまだ幼いですが、冗談で14代目と呼んだりはしてますね。だけどぼくは、自分の父親がそうだったように、息子に対して店を継いでくれなんて言うつもりはありません。もちろんそうなる事を願ってはいますが、ぼくの後姿を見た息子が、自然と店を継ぎたいと言ってくれるように、毎日を頑張るだけです。
つまるところ、14代目までこの茶屋が続くかどうかは、ぼくの後姿にかかってるってことですよ。言葉でなく行動で示す聡さんの背中があれば、14代目当主が誕生するのは間違いないことでしょう。これからも箱根峠の甘酒茶屋は、これまでと変わらぬ味ともてなしの心をもって、旅人の癒しの場となっていくに違いありません。
旧街道から旅人の足音が途絶えてからも、経営難を乗り越え伝統を守り続けました。旅人へのもてなしの心を次代へと伝えます。