
「一度は『無』に帰してしまった大切な土地を、小さくとも『有』に戻すことができた。それがどれだけ幸せなことか、言葉で伝えることなどできやしないよ。」そう語るのは戦後の小笠原で、戦場跡の残るかつての我が家を農園へと復活させた夢我人さんです。
「一度は『無』に帰してしまった大切な土地を、小さくとも『有』に戻すことができた。それがどれだけ幸せなことか、言葉で伝えることなど私にはできやしないよ。」
野瀬昭雄さんは1934年(昭和9年)に小笠原諸島父島の農園で生まれました。
明治政府の命令で小笠原の開拓を目的に渡島した曽祖父が、必死の思いで切り開いた農園。何年もかけて少しずつ耕し、祖父や父親が受継いできたその農園では、本土と異なる亜熱帯気候を利用して、様々な果樹や冬野菜の栽培が行われており、農園で作られる作物は幅広く市場に受け入れられていました。
野瀬さんはその豊かな農園で、幸せな幼少時代を過ごしました。
「早く大きくなって本格的に農業に取り組みたい」
そんな希望を持ちながら、親の農作業の手伝いをして毎日を過ごしていました。
しかし1941年(昭和16年)。
野瀬さんが小学生になったこの年、太平洋戦争が勃発してしまいます。
戦争が始まると共に、野瀬さんの住む父島にも不穏な空気が流れ始めました。開戦時には父島に司令部が置かれ、陸・海軍合わせて5000人もの兵隊が配備されました。
やがて戦争が激化し、同じ小笠原諸島に属する硫黄島が日米間の拠点争奪の中心となった3年後の1944年(昭和19年)には、小笠原の住人に対して本土への強制疎開が命じられます。小学4年生になっていた野瀬さんは、全てを理解しながらも幸せな記憶のつまった『畑のある我が家』から去らねばならなくなりました。
「戦争が終わったら、すぐにでもこの場所に戻り、農園をもっともっと大きくするんだ。」
その強い願いを胸に抱き、野瀬さんは後ろ髪を引かれながら本土への船に乗り込んでいきました。
しかし実際に野瀬さんが次に父島の土を踏むのは、それから20年以上も後のことになるのです。

1968年(昭和43年)、日米間で小笠原返還協定の調印が行われました。敗戦後、アメリカの領土として統治されてきた小笠原諸島は、この年にようやく日本へ返還されることになります。
父島で過ごした日々の倍以上の時間を都心で過ごすことになりましたが、野瀬さんの心から父島の農園への思いが消えることはありませんでした。
返還後に必死の掛け合いを続け、何とか野瀬さんは父島への船に乗ることが出来ました。もどかしさを抑えながら、船上で過去の幸せな記憶を反芻します。
長年思い続けてきた故郷。
訪れることすらできない場所にあった故郷。
父島二見港へ到着すると、野瀬さんは『我が家』へと懸命に走りました。
幼き日々の幸せな記憶。
先祖の尽力に対する敬意。
それらの思いの象徴である農園と我が家。
息を切らせてその場所に辿り着いた野瀬さんの目の前には、一面の森が広がっていました。
軍の司令部の隠れ蓑として敷地内に植えられた大木は、かつて畑であった土地に覆い茂り、土豪を掘った際の大量の土は、瑞々しい果実を実らせていた木々を埋め尽くしていました。
野瀬さんが常に心の拠り所として描き続けてきた農園は、過去の幻影として無残に引き裂かれました。
【農地だった場所に作られたトーチカ
※銃撃小窓の付いた防御陣地】
【隠れ蓑として植えられた大木】
呆然としながらも、野瀬さんは荒廃したかつての農園を歩きました。見る影もなく荒れた中で、所々に見て取れるかつての『我が家』の跡。
明治の代から使われていた井戸。
畑の区切りとして使われていた石垣。
確かに『我が家』が存在していた証…。
それらを見る度に、かつての記憶が色を帯び蘇っていきます。

そして野瀬さんは、一度は『無』に帰してしまった農園を再び『有』に戻すため己の人生を捧げる決意をしました。かつて明治の代に、自らの祖先が歩んだのと同じ道を行く人生。そんな生活に不思議な魅力を感じながら、変わり果てた農園の中で大きな声を出して笑いました。
ただ、気がかりなのは妻子のこと。
返還されて間もなく、水道や電気などのライフラインも整っていない父島で家族を生活させることに大きな不安を感じました。
何日も何日も悩み、家族とも相談を重ねた末に、家族は都心に残して単身で父島に渡ることを決めました。自分で手がけた農業で、安定した生活ができるようになるまで…。
野瀬さんが単身で父島へ渡った頃、まだ幼かった長女のもとみさんは、何故父親がいつも遠くにいるのか理解できずにいました。父親が何の仕事をしているかも知らないので、友人や先生から質問をされると本当に困ってしまったそうです。
もとみさんは父親が取り組んでいる仕事を十分に理解しないまま、大学を卒業後、東京の企業に就職していました。
多感な時期に別離していた父親に対して、複雑な感情を持つこともありましたが、初めて父島を訪れた時、それまでの全ての疑問は解消されました。山の急斜を利用して拓かれた農園には、マンゴーやパッションフルーツなど、鮮やかな彩りの果実がたわわに実り都心では見たこともない植物や果実が至る所で栽培されていました。
その頃には、先祖が営んでいた農園が戦争により荒廃していたことや父親がその農園を再興するために尽力していることは知っていました。しかしその農園は、戦争の傷跡など分からないほど充実し、南国の魅力に溢れるものになっていました。
それから間もなく、もとみさんは勤めていた会社を辞し父島へ渡りました。もちろん強い意志を持った父親が、決して諦めず投げ出さず、尽力してきた農園を手伝うためです。
野瀬さんが30年以上かけて復興してきた農園ですが、それでも完全に元通りになった訳ではありませんでした。まだまだ戦争により埋もれてしまった農地が多く残っています。父親が『無』から『有』へと戻した土地を、さらに発展させるのが自分の仕事であると考えました。
それからは父娘が力を合わせて農園の運営に尽くしました。そして少しずつ、野瀬さん一人だけでは手が回らなかった土地を耕すことができるようになりました。
そんなある日。
それまで野瀬さんが気にもしなかった農園の片隅に、もとみさんは見慣れない植物がひっそりと生きているのを見つけました。
特徴のある葉と赤く色づいた実。まさかとは思いましたが、よく見るとそれは正しくコーヒーの木でした。
日本のコーヒー栽培は、明治11年頃に小笠原で始まりました。
戊辰戦争で旧幕府軍として活躍した榎本武揚が、新政府に招かれ外務大臣に就任する中でオランダへの留学中に興味を持ったコーヒー栽培を小笠原で試したのがはじまりと言われています。インドネシアのジャワ島から移植された苗は、順調に生育して数年後に収穫されたと記録が残っています。
しかし収益面でサトウキビに劣るため、次第にコーヒーを栽培する農家は少なくなり、やがては放置されたまま野生化していったようです。
その当時のコーヒーの木が、農園の敷地内で戦争にもそのあとの空白期間にも負けず、最悪の環境の中で生き残っていたのです。

敷地内で見つけたコーヒーの種を、大切に農園に持ち帰り、慎重に育苗を始めました。 半信半疑ながらも見守っていると、やがて種は発芽して双葉を出し、成長していきました。
無に帰した農園に残っていた祖先の記憶。一度は完全に途絶えたと思っていた過去とのつながりが蘇りました。
少しずつ少しずつ。
コーヒーの木は増え続け、一昨年からは微量ながら収穫もできるようになりました。
そして…。
農園の中に伸びる細く緩やかな坂道。
今はこの道の両脇に育ったコーヒーの木を植え続けています。
まだ本数は少ないですが、このまま定植を続けていつの日か。坂道の端から端までコーヒーの木で埋め尽くしたいと思っています。
この道を『コーヒーロード』と呼んで、多くのお客様に歩いて欲しいと願っています。
そして農園の敷地内から湧き出ている天然水を使って、淹れたてのコーヒーを召し上がって頂く。
そんな夢を叶えるために、ゆっくりと、しかし着実にコーヒーロードは広がっています。